Q 「煎じ薬って、粉の漢方とどう違うの?」
A 「煎じ薬は生薬に水を加え、煎じた(煮出した)お薬です。煎じ薬と粉の漢方、いわゆるエキス剤と比較すると、かなり違いがあるので表で説明しますね」

ポイントをまとめます。

① 煎じ薬とエキス剤は、それぞれメリット・デメリットがある

② 煎じ薬の方がアロマ作用もふくめ、鮮度が高く治療効果が強い(仮に、煎じ薬をエアロプレスの精油豊かなコーヒーとすれば、エキス剤は乾燥の際にかなり香りが飛んだインスタントコーヒー、とも言える)

③ 煎じ薬の指標成分を100とすると、エキス剤は70、つまり煎じ薬の3割引きでも流通可能(上記②と関連、後述する「漢方エキス製剤の審査方針」(※))

④ 腸内細菌を改善する食物繊維の量が、煎じ薬には多く含まれる

⑤ 煎じ薬は専門性が高く、経験のとぼしい者が処方すると、効かないどころか副作用が強く出現する可能性が、エキス剤よりも増える。

→ ③・⑤と関連しますがたとえば、食物繊維を増やすべく砕いた薏苡仁(ハトムギ)などを大量に用いた場合、FODMAP食を避けるべき過敏性腸症候群(IBS:irritable bowel syndrome)の患者さんは腸内細菌が改善する前に、便通に苦しむかもしれません。一概にエキス剤が悪いとは言えません。とはいえ、保険診療のエキス剤は148種類のみで、圧倒的に煎じ薬の方が処方の幅が大きく、根治が難しい病、慢性疾患への選択肢が増えます。刻み生薬の煎じ薬(別名に湯液、煎液)を処方できる漢方専門医の出番です。

さて…ボリュームが多いのですが今回、比較表をつくりました。とくに食物繊維に関しては(2024年6月27日現在)検索する限り、煎じ薬とエキス剤を比較の俎上にのせたものが、他に無いようです。

(※)「漢方エキス製剤の審査方針」

エキス及び最終製品の1日量分中の指標成分について、規格及び試験方法について含量規格を設定し、別紙1(2)のイ(筆者注:標準湯剤(つまり煎じ液)における指標成分の下限値)の70%以上に設定することで差し支えないが、標準湯剤(筆者注:煎じ液)の指標成分の下限値以上とることが望ましい」と国が定めている(薬審二第120号通知、昭和60年5月31日)

以上です。後日、下記の全てではありませんが、項目毎に記事にしてみます。

〈コスト〉 煎じ薬よりも、保険診療のエキス剤の方が安いが今年、薬価改定でそのエキス剤も大幅に値上がりした。

〈携帯性・保管性・簡易性〉 保険診療のエキス剤が良い

〈アロマ・味覚作用〉 煎じ薬の方が強い

ところで芍薬甘草湯という服用して数分後には、こむら返りが嘘のように消失する漢方をご存知ですか? 本来、これは矛盾なんです。胃で消化されるまで数分どころか約4時間かかり、はたまた吸収の過程を経て、やっと有効成分が筋肉を弛緩させるのがスジです。芍薬甘草湯は甘草以外、芍薬しか含まないのですが、その芍薬にはモノテルペン配糖体という香り、芳香性の物質が含まれます。最近、そのアロマ成分、モノテルペン配糖体が芍薬には少なくとも11種類含まれていることが判明しました。そういうこと。嗅覚の嗅神経を介して、ダイレクトに中枢に作用しているのでしょう。ちなみに嗅神経は脳幹に達しない、動物的な神経。脳幹を経ない神経は他に視神経しかありません。発生学的には野生的な、極めて変わった神経です。

〈食物繊維〉 煎じ薬の方が多い

〈薬の効果〉 煎じ薬の方が高い

〈専門性・稀少性〉 煎じ薬の方が高い

〈処方の幅〉 煎じ薬の方が広い

【以上、転載禁止】

みちとせクリニック院長

堀田広満

前回、日本で昭和期にひろまった漢方、柴朴湯1について書きました(漢方Q&A 1「そもそも漢方って、なんですか?」)。今回は昨年出版された本の、柴朴湯の記載を通して、正しい伝承がいかに困難かの具体例を考えたいと思います。

『本売る日々』という本です。実は昨年5月3日の記事に「近日、記事にします」としながら、すぐ書かなかったのには理由があります。本書の内容に決定的な間違いを見つけてしまった私は1年間放置し私と同様、誤認に気づく方が出るまで待つことにしました。

が、検索したところ、誰も指摘していません。Amazonでの口コミも高く評価された今なら、記事にしても本書の価値を落とさない、と思い結論から述べます。

佐助なる人物が「たいていの医者が喘病で処方するのは柴朴湯なんだよ。(中略)治療はまず柴朴湯だ(後略)」と語りますが、本書の舞台である江戸時代に、柴朴湯は存在しません

先に断っておきますが、筆者をディスる気は毛頭ありません。むしろ日本漢方の特徴である口訣(くけつ)に着目し、小説に落とし込んでいただいたことを感謝します。日本経済新聞(夕刊、2023年4月11日)には、作者が「医書とは別に医師が治療法などを口伝で残した[口訣集]に行き当たり、視界が開けた」とあり、漢方医のわたしは興味深く拝読しました。

憶測ですが、筆者にアドバイスをした医師がいるのかもしれません。それは、駆風解毒湯加桔梗石膏2という玄人むけの処方や、日本漢方の特徴の一つである口訣など専門知識が本書に登場するから、です。江戸の名医、和田東郭3が著書を残さなかったことなど、深く漢方業界に身をおいた人でなければ知らない史実も出てきます。

しかし失礼ながら、漢方の歴史をよく理解していない先生かもしれません。「いや、あれは柴朴湯ではなく柴苓湯4の間違いです」と、そのドクターは言うかもしれないが…話の筋が気管支喘息の処方なので、柴朴湯が自然なんです。腎炎なら、まだしも。

「昭和40年12月15日」と前書きが書かれた『経験・漢方処方分量集』(監修は大塚敬節・矢数道明)では、柴朴湯のことを「小柴胡合半夏厚朴湯」と記載しており、1965年の段階では、柴朴湯の呼称が固定されていなかったことが分かります(上の図)。もしかすると pre-柴朴湯「小柴胡合半夏厚朴湯」は同処方集が世に出るきっかけをつくった一人、木村長久5が存命中であった昭和16年(1941)までさかのぼる可能性があります。

大塚敬節の師であった湯本求真6(1876-1941)が処方していた、とも伝わりますが、いずれにしても柴朴湯が世に出た時代は江戸ではありません。こういった誤謬、(本書ではないがマウンティングみたいな)詭弁の積み重ねで、元の処方が原作者の意図からズレていくんです。だからオリジナルに近いことが重要。つまり、伝統医学は原典が大切。新しいものが良いとは限らないのです。

私も編集に関わった『漢方医学大全』の処方解説でも、柴朴湯の出典を「小柴胡湯と半夏厚朴湯の合方(本朝経験方)」と記しています。大陸ではなく本邦で開発されたオリジナル処方は、もっと正確に伝承されるべき、と考えます。

話は変わりますが以前、高橋幸宏さん追悼文で、サディスティック・ミカ・バンドの名盤『黒船』中の曲「墨絵の国へ」に関して、私は「(幸宏さんの語りに関して)それが新たな船出の不安感を醸し出しているようで、リーダー”トノバン”加藤和彦さんのセンスを感じます」と記しました。が、この曲の中心に高橋幸宏さんを配したのが、加藤和彦さんではなかった可能性があります。

高橋幸宏“LOVE TOGETHER YUKIHIRO TAKAHASHI 50TH ANNIVERSARY“という本で、このアルバム『黒船』のプロデューサー、クリス・トーマス(業績にBeatlesの『ホワイトアルバム』のアシスタントプロデューサーなど)が、こう語っています。

「『墨絵の国へ』の朗読パートに彼を選んだのは、

彼の声が曲にぴったりな色合いを持っていたから」

つまり幸宏さんの起用は、クリス・トーマスってことです。これも、現場にいた加藤和彦”トノバン”が他界しているので真相は不明ですが。思い込み、って怖いものです。今回、『本売る日々』中の矛盾、柴朴湯について触れましたが、私も痛み分けってことで。

ちなみに加藤和彦さんの映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』が、明日5月31日から上映されます。語りは高野寛さん。YMO人脈が好きな人は必見です。

【以上、転載禁止】

みちとせクリニック院長

堀田広満

(補足)

1 柴朴湯:保険診療に収載あり

2 駆風解毒湯加桔梗石膏 くふうげどくとうかききょうせっこう:元は駆風解毒散(さん).保険収載なし

3 和田東郭 わだとうかく

4 柴苓湯:保険診療に収載あり

5 木村長久 きむらちょうきゅう:浅田宗伯の学統.

6 湯本求真 ゆもときゅうしん

Q 「そもそも漢方って…なんですか?」
A 「生薬のすべてが漢方、と思いますよね。ふつう。でも、生薬を使っていれば漢方、ってことにはならないんです」

生薬を用いた診療のすべてが漢方とは言えないし、中国で使われている処方が漢方ではない、のです。あくまでも、その処方を日本人が受容したかが、肝です。それらの処方群でさえ、日本の歴史の中で淘汰されたものもあり、歴史の深さが重要です。簡単にいうと、日本の歴史というフィルターを通して、日本人に受け入れられ続けてきた医療体系が「漢方」です。なので、本来は針灸も漢方です。

江戸時代、オランダ医学(蘭方)というカウンターカルチャーが日本に入るまでは、比較する必要もないほど当たり前に存在していた漢方でしたが、比較対象が生じたため当時「漢の時代を中心とした、大陸由来の処方や針灸など伝統医学のこと」を「漢方」と呼ぶことにされました。その体系は中国大陸で、漢の時代にだいたい形成されました。「だいたい」と言うのも、漢以前にも伝統医学の体系を培養する土壌があったからです。

16世紀には南蛮医学が、17世紀にはオランダ医学(蘭方)が伝わったが、それでも19世紀半ばの明治維新まで、日本の医学文化は基本を中国に負う伝統医学が中心であった。この医学体系を日本人は蘭方に対して漢方と呼んだ」(小曽戸 洋『中国医学古典と日本』より)

さて、漢の時代につくられた医療哲学、処方体系が、その後の時代に大陸でそのまま継承されたか、というと厳密には違います。それは漢という国が滅ぼされた後に、宋、金、元、明など大きな国が形成される度に、その国家を形成する民族(漢民族、モンゴル族、および現在の満州族につらなる女真族など)の風習文化、考え方の違いによって、処方や施術方法に幅、バリエーションが生まれた、ということです。

ただし現在の日本では、江戸末期から明治初期までに受け入れられてきた、大陸からの処方群をまとめて「漢方」と呼ぶことが一般的です。国家中枢の違いを考えれば、「漢方」以外に「金方」とか「元方」とか別処方群の呼び名があっても良いのですが、十把一絡げ(ジュッパヒトカラゲ)に漢方と呼びます。

上流にさかのぼるなら漢の時代。
では下って、近代はどこまで漢方と呼べるのでしょう?

わたし個人は、後の大正天皇を救命するなど明治初期まで活躍した浅田宗伯(1815 – 1894年)がのこした著作群までが原則最後、と捉えています(後述しますが、七物降下湯など例外はあります)。

明治、大正時代は国策により、わが国の漢方医が激減、ほぼ枯渇しました。昭和に入り、少数精鋭の先人たちにより復興の息吹があり、第二次世界大戦の後、ふたたび漢方、針灸が花開くこととなります。

ちなみに現在「中医学」と呼称される医学は、昭和の伝統医学復興につづき、1966年からはじまった文化大革命の、つまり中華人民共和国で再編した新しい伝統医学、と私は考えています。日本で漢方の粉薬、いわゆるエキス剤による「保険漢方」が一般に普及し始めたのが1970年代なので、日本国内で医療保険の適応がある漢方処方の一覧に、中医学の新しい処方(たとえば冠心Ⅱ号方1など)が、まったく入らないのも理解できるでしょう。

例外はあります。
七物降下湯2は、地黄3、当帰4、芍薬5、川芎6という「四」生薬から構成される四物湯7に「三」つの生薬、釣藤鈎8、黄耆9、黄柏10を加えた計7つの生薬で「七物」なのですが、昭和に大塚敬節(1900 – 1980年)が創った処方です。元となる四物湯は『太平恵民和剤局方11』を原典とし、創成から917年以上(2024年時点)を経ています。四物湯のバランスを崩さない程度の生薬を加えており、長い歴史に淘汰されなかった四物湯の派生である七物降下湯は、日本人の体質に合った処方のひとつ、と考えられます。

ちなみに、この七物降下湯に杜仲12を加えると八物降下湯13。七物降下湯に3生薬、山梔子14、黄連15、黄ゴン16を加えると十物降下湯17になります。これら四物湯ベースの薬を創ったのは、それぞれ私が8年間奉職した北里大学東洋医学総合研究所(現在、北里大学北里研究所病院 漢方鍼灸治療センター)の3人の所長です(七物降下湯は初代 大塚敬節、八物降下湯は二代目 矢数道明、十物降下湯は三代目 大塚恭男)。

歴史に淘汰されなかった処方群、日本人の体質に合った処方群のうちの極一部が 保険漢方に入った。一方、歴史に淘汰されていない中医学の新しい処方群が 保険漢方に入っていない(文化大革命が終了したのが1976年とされ現在、まだ50年も経ていない)。結局「いま、ここ」にあるものは過去、歴史とつながっている、ってことですね。

ドイツのヴァイツゼッカー元大統領の名言に「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」とあります。文脈は異なりますが、歴史を知らないと、目の前に起きていることに正しい判断、決断ができないし、正しい処方が得られない。なので、漢方の歴史にまったく興味がない医者が出す漢方処方は、すこし気をつけた方が better かもしれません。

笑い話ですが、日本東洋医学会の専門医試験を受けるべく、あるドクターが提出した症例レポートに「原典(ある処方が史上、最初に書かれた医学書)は『本朝経験』」と記載があったそうな。笑い話は解説してしまうと面白味がなくなりますが、無粋ながら。本朝経験とは「日本における経験に基づく処方」の意味で、書名ではないのです。なんちゃって漢方医が、ちゃんと合格できたかは不明です。信じるか信じないかは…あなた次第。

ちなみに本朝経験方には、柴朴湯18(小柴胡湯19と半夏厚朴湯20を合わせた処方)などがあります。専門医試験には口頭試問があるのですが、意地悪なひっかけ問題を出してもおもしろいかもしれません。

試験官「では、柴朴湯の原典はなんですか?」
受験者「『本朝経験』という書物です」
試験官「ふっふっふっ、オヌシひっかかったな。では、小柴胡湯と半夏厚朴湯の原典は?」
受験者「(かぶせぎみに)『本朝経験』です」
試験官「…」

「虫の目」ではなく「鳥の目」で俯瞰して観ると、生薬、ハーブをあつかっているから即、漢方ではないし、それらを処方しているから即、漢方医とは限らない、です。たとえ漢方を名乗るクリニック、薬局であっても、気をつけて受診もしくは相談された方が良い。私はそう思います。相手次第です。本当の広告は、ネットではなく地声を通しての口コミ。

さきに述べた大塚恭男先生は、北里の職員らに十物降下湯と呼ばれ処方が独り歩きするのを嫌い「十物降下湯ではなく、温清飲加釣藤・黄耆21と呼んでほしい」と頼んだそうです。温清飲という処方に釣藤(鈎)、黄耆を加えた生薬内容は十物降下湯と全く同じなのですが、恭男先生ご自身はグイグイ我先に目立とうとされなかった御仁のようで、孫弟子に当たる私も間接的によい教えをいただいたと勝手に感じています。新しいものが良いとは限らない

守破離」の「破」はカッコよいが「守」があってのことだから。「守」のない「破」は仇花です。本来は「孤高」になれるはずの「離」も、「守」がなければただの「孤立」になりかねないデス。型破りのつもりが、形無し。守るべき伝統を学ばぬ者が破ったつもりになるものは、「自己満足、自己憐憫」と記された腕押しの暖簾なのかもしれません。自戒、自戒。

さて日本と異なり、現在の中国は国家をあげて伝統医学に本当に力を注いでいます。現在の中華人民共和国のリーダー達は漢民族が多く、おおもとの漢方、つまり「漢民族による漢方よ、いまいちど」という国民発揚の意識付けもあるかもしれません。Global だけではなく Local の重要性に気づいているのでしょう。世界は伝統医学に舵を切り始めていますが、日本は出遅れています。

【以上、転載禁止】

みちとせクリニック院長

堀田広満

(補足)

1 冠心Ⅱ号方 かんしんにごうほう:保険診療に収載なし

2 七物降下湯 しちもつこうかとう

3 地黄 じおう

4 当帰 とうき

5 芍薬 しゃくやく

6 川芎 せんきゅう

7 四物湯 しもつとう:創成は北宋より前の時代へ、遡れる可能性がある。原典は現段階で太平恵民和剤局方。

8 釣藤鈎 ちょうとうこう

9 黄耆 おうぎ

10 黄柏 おうばく

11 太平恵民和剤局方 たいへいけいみんわざいきょくほう:大観年間(1107‐1110年)に陳師文、陳承、裴宗元らが編纂。

12 杜仲 とちゅう

13 八物降下湯 はちもつこうかとう:保険診療に収載なし

14 山梔子 さんしし

15 黄連 おうれん

16 黄ゴン おうごん 「ゴン」は{艸(くさかんむり)+今}

17 十物降下湯 じゅうもつこうかとう:保険診療に収載なし

18 柴朴湯 さいぼくとう

19 小柴胡湯 しょうさいことう

20 半夏厚朴湯 はんげこうぼくとう

21 温清飲加釣藤・黄耆 うんせいいんかちょうとうおうぎ:温清飲は保険収載あり

当院、みちとせクリニックを開業し3周年となりました。

写真は、港区某ホテルで行われたお祝いの会の一コマです。

粋な計らいで頂いたお祝いプレートは、お店の名前が桃にまつわるからか、蓮餡入りの桃まんじゅう!

最近、患者さんにこんなことを聞かれました。

「院内の内装のアクセントがピンク色なのは、どうしてなんですか?」

こんな風にお応えしました。

「みちとせの桃、という故事の桃をイメージして、ピンク色なんですよ。それに東洋医学って陰陽、白黒の世界観で気難しそうじゃないですか。東洋医学って本当はもっとカラフルな医療なんですよ。なのでピンク、桃色なんです」

当院のホームページを開設した際、院長挨拶にも記しましたが不老長寿の桃。3,000年に一度花ひらく(千歳が3つで みちとせ)と伝えられました。3,000年つづいてきた東洋医学は今後も消えることはありません。この医学にたずさわれることが楽しくて仕方ありません。ありがたいことです。

ふかふかの桃のフォルム、蓮(はす)のあん、はふはふ言いながら食べる熱々のお饅頭。最高でした。お祝いいただきありがとうございました! みちとせの桃を食べた気になって、これからもパワフルに邁進します!

みちとせクリニック院長

堀田広満

お屠蘇(おとそ、屠蘇散)を対面販売しています。
「正月にお屠蘇を飲んできたのに、最近なぜか飲んでないな」という方も多いのではないでしょうか。

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(対面販売のみ)

お屠蘇は、漢方生薬でつくられています。
桂皮(シナモン)、陳皮(温州みかんの皮)、山椒(さんしょう)などの生薬で、あの独特の風味が生み出されるんですね。抽出の効率をあげるため、実際の商品内生薬は写真より細かく刻んでいます。

もとは中国から日本に伝来し、平安時代には宮家の正月に縁起物として服されるようになりました。

後漢時代、華佗(かだ)という中国の医師が考案したと伝わります。屠蘇に関する記録は、孫思邈(そん しばく)が記した『千金方』(せんきんほう、650年代)という医書の「歳旦屠蘇酒」が、現時点で一番ふるいものと思われます。屠蘇は少なく見積もっても、1,370年強つづいてきた風習ということです。

浮世に移りゆくものが多いと実感する昨今ですが、ここはゆるりと、不動のものを。
一年の終わりにまずは心を静め、屠蘇散を日本酒などに一晩浸し、新年の初めにこの風味をお愉みください。

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南青山のご近所の方も、また「たまには表参道で」と遊びがてらに来られる方も、遠慮なくどうぞ。

おかげさまで みちとせクリニック 開院から3周年となります。
日頃の感謝をこめまして、数に限りがございますが、
漢方でご受診いただいた患者さん、
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ご希望の方はご来院の際、お声がけください。

なお当院は完全予約制となっております。
よろしくお願いします。

みちとせクリニック

院長 堀田広満

当院の院長、堀田が記事を書いています。わたしに多大な影響を与えた坂本龍一「教授」が他界されて1ヶ月強、教授の音楽を聴いてきました。自分なりに追悼したくPCに向かっています。

私の母方ルーツが、2人の国会議員を出した高知県瓶岩村(現、南国市)の坂本家(坂本素魯哉坂本志魯雄)であり、「将来、高知県の山奥、できれば海の見えるところに住みたい」と語っていた母方同姓の教授にシンパシーを感じます。

私が高校2年の1986年5月12日。鈴木くんと行った坂本龍一コンサート “Media Bahn Live“ に感動したふたりは帰り道に「よし! 文化祭でYMOのコピーバンドをやろう!」と意気投合しました。同秋、同級生3人でステージに立ったのは以前、高橋幸宏さん追悼記事で書いたとおりです。その後、医学部入学の際、自己紹介で「坂本龍一、新人では高野寛がよろし」と音楽鑑賞の趣味を同級生へ明かしたのでした(みちとせクリニックInstagram (2021年12月21日)参照)。

ピアノとKeyboard, PC の Key を用い、繊細な指先で magic の鍵穴を開けてきた坂本龍一教授。その姿は primitive(原初的、根源的)なルーツ(根)を求める求道者のようでもありました。教授の東洋、西洋に対する哲学は、骨髄移植など血液・悪性腫瘍を専門としながらも2000年に日本東洋医学会に入会した私の考えと似ている、と個人的に感じてきました。

デジタルとアナログ。
指先(digit)を動かすデジタル(digital)な作業。

でも、やってることはアナログ。

上記内容は、2010年4月17日、新宿の紀伊國屋サザンシアターで開かれた、小沼純一さんとの公開講座 “Commmons: schola 音楽の学校”で教授が話されたことです。この時、控えめにうなずいて反応していた私に「おっ! 分かってんじゃん(笑)」と、ニヤッと笑って私を教授が何度か見つめてくれたことは、記憶の宝物として sealed しています。

「血液はプレパラート、顕微鏡があれば、primitive な診断が可能です」。医学部5年のとき、臨床講義で柴田昭という内科教授が教えてくれました。時代は顕微鏡からさらに downwardへ(DNA、量子へ)向かいましたが、結局のところ「upwardへ(蛋白質へ)戻り始める」と2000年前後から言われ始めました。

ここで詳細は語りませんが、2002年に田中耕一さんが蛋白質の研究でノーベル化学賞を受賞した際、東洋医学が必要になることを確信しましたし、今もその気持ちは揺らぎません。Back to the roots. 金のかかる医療に耐えられるほど、この地球に余力はありません。根源、根っこ(生薬、蛋白)に戻っていきます。

さて唐突ですが、教授は白居易(あだなが楽天、通称は白楽天)のような方だったと私は思います。アカデミックでありつつ、民衆を愚弄する体制から距離をおいた結果、左遷されたけれども有能ゆえに結局、権力をもった人。白楽天に「右寄りなのか? 左寄りなのか?」と問うても「さあて…どっちでもないな」と答える気がします。

2022年11月25日の日本経済新聞の記事「とことん自分を愛す」で、白楽天を「71歳まで勤め続けた超高齢官僚」と評していましたが、おなじ71歳で他界した教授もアルバム『12』、ある学校の校歌作曲、病床からの東北ユースオーケストラへ向けた応援コメントなど、癌の末期でも精力的な方でした。RadioSakamoto最終回(2023年3月5日)での盟友、高橋幸宏さんへ向けた教授コメントも、死を前にした人とは思えないユーモアに満ちたものでした。

この期間、ずっとジョギングを続けているような倦怠感(悪液質)があったはずです。そんな中、昨年末のオンラインコンサートで聴衆に向けて教授が笑顔で語った “Let’s enjoy!” は、今でもスゴイなぁと感嘆します。

教授は自由な方でした。白楽天と同様、自然を愛で、楽器を奏し詠い、女性を愛し、最後は水墨画のような世界観をつくっていきました。先に述べたオンラインコンサートはモノクロ画面でした。またアルバム『12』も禅的でした。最後のアルバムを「一筆書き」と酷評する人もいますが、陰陽の世界が分からないんだろうなぁ。もったいない。

独り善し(独善)を大切にした白楽天。
独立、自由を追い求めた教授。

それは「我がまま」ではなく「他助」「公助」をふくめた自由。彼の所属した YMO(Yellow Magic Orchestra)の曲「以心電信」に “You’ve got to help yourself” の歌詞の後、”Then you’ll help someone else”と続きますが、先ず自分が自分自身を愛し受け入れていなければ他人を愛するなんて無理だよね、という自助あっての他助。

聖書の中にも「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とありますが、教授はそれができた人だと思います。教授にキリスト教の信仰は無かったはずですが、彼がピアノを学ぶきっかけを作った世田谷幼児生活団の設立者、もと子はクリスチャンでした。彼女のつくった自由学園。その特集本に教授は「すべてはここから始まった!」とも著しています。『音楽は自由にする』という、教授の著書もあります。

また教授の父方の祖先が隠れキリシタン(※)で、ノブレス・オブリージュなど西洋的な思想を、あっさり自分のものにしているのも幼児期からの教育ゆえ、と思います(ノブレス・オブリージュが重要である旨、教授自身が肉声で語った過去放送が、2023年5月5日の追悼番組、ラジオJ-WAVEの9時間放送で再紹介されました)。

(※)坂本龍一「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」第6回(『新潮』2022年12月号)

自由を求めた人。
情念ではなく情感を求めた人。

教授がつくった”Energy Flow” が流行した頃、メディアがもてはやした「癒し」「癒される」という言葉を嫌った人でもありました。たぶん依存、共依存を徹底的に排除してきた人生だったから、でしょう。それは嫌いな作曲家としてドヴォルザークなど具体的な名前を列挙し、ロマンティックな世界観を遠ざけたこととも通底しています。きっと。

とはいえ、実はとてもロマンティックな人。おちゃめな人。それを隠すためふざけちゃう人。少年のように。

ソロでは見せませんが、別の人とコラボすると「…しょうがないなぁ(笑)」とか笑いをこらえながら、ふざけたりロマン情緒を醸し出した教授。演じている振りをしつつ。自分はそう思います。

“Energy Flow”をカバーした「エナジー風呂」。

おもちゃピアノで遊んでいる教授。アホアホマンとかも、最高です。白楽天、老子荘子(胡蝶の夢、の人ですね)の世界観。

一方、ロマンの究極は、こんな曲に表れていると思います。
“A Flower Is Not A Flower”

この曲は、二胡奏者の Kenny Wen が教授に依頼して作られました。その際、イメージとして白楽天の漢詩「花非花」を教授に伝えたそうです。

花非花 霧非霧
夜半来 天明去
来如春夢幾多時
去似朝雲無覓処

花にして花にあらず
霧にして霧にあらず
夜半に来たりて 天明に去る
来たること春夢のごとく 幾多の時ぞ
去ること朝雲に似て もとむる処なし

(いんちょう超意訳)
わけありの恋人が、人目をはばかり夜にやってきて、やっと会えた。が、朝日が昇る前には目の前から消えていく。あの花は、あの霧は、どこへ消えてしまったのか? 春の夢のようにわたしの腕の中にあった芳しい香り、幽玄な色、ぬくもり。パルファム、ミストのように消えてしまうのか。何度でも。ああ、消えてしまった。引き留めたいのに、止められない。朝の雲のように流れ去っていくのを。

大貫妙子さんがつけた詞がシンプルで流石です。

夜露に濡れ その葉をたたむ
幼い頃の 姿で眠る
花は目覚め 月を仰ぐ
名はネムノキ 夏の夜の
(後略)

以前から大貫妙子さんの曲「新しいシャツ」を聴くと、なんともいえない切なさを感じてきましたが、前述の「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」連載を読むまで、その曲が生まれた背景を知りませんでした。あえて詳細は書きませんが、上述の花非花、をなぞっています。大貫妙子・坂本龍一のアルバム『UTAU』中、”FLOWER” と名前を変えた同曲を大貫さんが歌っています。

教授は女性にモテました(YMO時代の本 “OMIYAGE” にも明治神宮で若い女性たちに追われる教授の姿が、写真に残っています)。不思議なのは教授と別れた女性たちが、その後も教授と良い関係を続けているケースが多いことです。

斎藤孝さんの著書『最強の世渡り指南書』中、井原西鶴『好色一代男』のモテ男について触れられていますが、なぜモテたか。別れた後も、その女性がずっと幸せであるように願い行動したから。そんなことが書いてありました。約10年前、読んだ本なのでうろ覚えですが。

エロス、フィレオー、アガペー。
愛にはいろんな形がありますが、フィレオー(兄弟愛、親類愛)に近い持続する愛をもっていた方だと思います。教授。

「だから」の愛ではない。「だけど」の愛。
「だけど」愛された教授。
「だけど」愛した教授。

依存、共依存と距離をとる教授が嫌いな最近の言葉は、これらだったと思います。たぶん。

「泣ける」「涙で前が見えない」

人前では簡単に泣かない人だし、泣かせない人だったと思います。

前述の「新しいシャツ」の歌詞にも、それがうかがえる気がします。

さよならの時に穏やかでいられる
そんな私が嫌い
涙も 見せない
嘘つきな 芝居をして

すでに旅立ってしまった教授とのお別れに、私も「穏やかでいられる」はずもないのですが、こればかりは仕様がありません。そろそろお別れの文を書きます。

教授が音楽を担当した映画 “THE SHELTERING SKY” 中、こんなセリフがあります。
「touristは元の場所へ戻れるけど、travelerは戻らない」

人生は旅。
Tour ではなく Travel

この世の人生では、観光を嫌ったことで有名な教授。死に直面しても travel を貫いた気がします。やや前のめり気味に。

「天に上るような仕事をしてほしいから『龍一』と名付けた」と父の坂本一亀さんが生前、語っていたそうです。名は体を表す、と言いますが本当にそう。その名前のせいなのか、お父さんも亀さんのせいか、五行でいえば、教授は「水」の人だったと私は感じています。しかも水滴ではなく「大海」。

花非花には「霧」とありますが、愛する娘の美雨さんをおもい作った “AQUA” も水。アルバム『Out of noise』には、厳寒地の氷山にてサンプリングされた曲もあります。映画『CODA』では雨の中、バケツを頭にかぶった教授が雨音を愉しむ姿が映っています。氷、水、霧。変幻自在なWorld citizen(世界市民). 

2017年のアルバム『async』には、映画『惑星ソラリス』を思わせる “solari”という曲がありますが、古城が水に取り囲まれながら徐々に崩れていく様をイメージしました。そもそも、この映画は水の音が多く流れてきます。

大きな龍のように立ちそびえた教授が、人体という器には収まりきらず、徐々に病に浸食されていくようで同曲を聞き返すのがつらかったのですが、大傑作、歴史に残る名作です。音楽室の巨匠たちの写真群に、教授の写真も並ぶことでしょう。いや、教授がそれを望まないか…

先月、出たばかりの村上春樹さんの新作『街とその不確かな壁』には、こんな文章があります。

「夢はきみにとっては、現実世界で実際に起こる事象と同じレベルにあり、簡単に忘れられたり消えてなくなったりするものではなかった。夢は多くのことを伝えてくれる、貴重な心の水源のようなものだった」

読後、私は「きみ」に教授を想いました。そして教授がみた夢は、簡単に忘れられたり消えてなくなったりするものではない。

“A Flower Is Not A Flower”

夢と現実、月と太陽、彼岸と此岸。

究極的には時間は溶けて「いま」しかない。

「でももうそこにはいなくなって

彼は花のように姿を現します

Coming up like a Flower」

YMO “Nice Age”

芸術は永遠

江戸期には日本も採用していた太陰暦を、イスラエルは今でも採用していますが現地では「月が昇ってきた。新しい日を迎えたね。だから休もう」と一日を寝ることから始めるそうです。起きるのではなく、眠る。

昨夜、こんなことを考えながら満月を観ていました。

「教授、こちらは、もうすぐ新しい日を迎えそうです。だから休みますね。教授もゆっくり休んでください。ではまた。ありがとう教授」

Ryuichi Sakamoto
Requiescat In Pace

#19860512

#坂本龍一

#RyuichiSakamoto

みちとせクリニック
堀田広満

みちとせクリニック堀田広満『勿誤薬室方函口訣に引用された療治経験筆記』。

当院の院長、堀田が書いた論文が先月、『漢方の臨床』(2023年、第70巻・第4号)に載りました。

煎じる刻み生薬を扱う医療者で『漢方の臨床』を知らなければ、その人はモグリです。興味があったら近くの漢方薬局や漢方医に聞いてみてください。ちなみに本雑誌を刊行する東亜医学協会は、昭和13年(1938)に大塚敬節矢数道明らが中心となり創立されました。今年で85周年。

ちなみに大塚・矢数の御両名は、堀田が8年間奉職した北里大学東洋医学総合研究所の初代・二代目の所長を務められた東洋医学界の大御所です。おふたりの名前を知らない漢方医がいたら、その人もモグリ(笑)

論文名は『勿誤薬室方函口訣に引用された療治経験筆記』
…そもそも、どう読むの?…と言われそう(笑)

ふつごやくしつほうかんくけつ に引用された りょうじけいけんひっき

さて、この論文。2冊の医書を比較検討したものです。前者『勿誤薬室方函口訣』(1878年刊)は浅田宗伯、後者『療治経験筆記』(1795年成)は津田玄仙の著作です。

両書に共通するのは口訣(くけつ)です。口訣とは、ある処方の用い方のコツを、師が弟子に伝える口伝のこと。その一部が医書となり後世に伝えられました。これは日本独特の文化的な結実で、他国にあまり類をみません。当院を受診される患者さんの診療にも、これらの口訣を活かしています。

この口訣をあつかった小説『本売る日々』が2か月前(2023年3月)、出版されました。同書の著者は2つの賞(中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞)を受けています。日本経済新聞の夕刊で紹介されており、すぐ購入しました。口訣が過去の産物ではなく、現代にも息づいていることが分かり、興味深かったので近日、記事にします。

60歳で時代小説家デビュー、67歳で直木賞を受賞した青山文平 氏が、この本を著わされました。

「2023年に入れば安定供給されるようになるかな」と楽観してましたが、漢方の粉薬(エキス剤と呼ばれます)がまだまだ品薄のようです。原因は、漢方が新型コロナウイルス感染症の急性期および慢性期治療に必要とされているから、です。需要があるんですよ。新時代の漢方。

2021年には、全身倦怠感などの新型コロナウイルス感染症の後遺症に補中益気湯が効く、など騒がれ始めていましたが「知る人ぞ知る」ニュースでした。しかし昨年2022年8月には、ついに某社の漢方製剤群が安定供給できないほどとなり、28品目の漢方エキス剤が「生産調整」「限定出荷」となりました。

それがB社、C社…と飛び火したようで、日本国内で漢方エキス製剤をとりあつかう企業が影響を受けています。A社はまだ23品目を出荷できていない(5か月経過した昨年末時点)、とのこと。

さて…当クリニック、みちとせはどうか、というと、生薬そのものを煎じる自由診療なので影響はほぼありません。そもそも漢方のエキス製剤の主な需要は保険診療にあり、保険で十分効果が出るのであれば、それも結構なことです。ただし安定供給は大前提。

たとえてみれば、インスタントコーヒーの在庫がなくなって慌てたお客さんが店員さんに「今度いつ納入されるんですか?」と問い合わせたところで、「とにかく入ると得意先にすぐ売れて、まだ分からないんです!」と現場も状況を把握できていない、というところでしょう。

お客さん。インスタントコーヒーに限らず、コーヒー豆そのものを取り寄せてドリップコーヒーにすれば良いだけの話、かもしれませんぜ。即席では提供できない、アロマの芳醇な香り、濃厚な風味があなたを満たします。

私が危惧しているのは、新型コロナウイルスなど一過性のことではなく、今後かならず起きてくる漢方エキス製剤の価格破壊。インスタントコーヒーにたとえたエキス製剤は、現状の保険診療のままだと(保険の薬価改定などで)値崩れを起こしてきます。中国など他国でも生薬の価値が上がってきており、原価は上昇。一方の保険診療下での売値は、値下がり。となれば、どこかで逆ザヤになってきます。売れば売るだけ企業の赤字に。対策としては生薬の質を落とす、生産農家の人件費を減らす…あまり考えたくないですね。

「保険診療から漢方がなくなるはずが無い」と楽観視する人も多いですが、団塊の世代が団塊でなくなる時代の少し前に、保険診療からの漢方はずしが起きるのでは?と私は考えています。それが私が自由診療に舵をきった理由のひとつです。いや、もっとポジティブに、いにしえから伝わる元々の漢方をお出ししたい、だけなのですが。

いま起きている漢方エキス不足、その混乱は、これからちょっと先の時代の予行演習かもしれません。
あなたもどうですか? ドリップコーヒー。良質な豆をとりそろえるように、適正な生薬が入ってきているか、目を光らせつつ日々、生薬を患者さんにご提供しています。

違いの分かる人には分かる、煎じ生薬。自信をもってお勧めします。

【以上、転載禁止】

2023年1月12日

みちとせクリニック院長

堀田広満

日本東洋医学会の学術総会が本日5月27日~29日まで開催中です。

今回が第72回。歴史ある学会。院長の私も演題が採択され、一般演題を発表しています。

カテゴリーは医学史。聞き慣れないことばですね。漢文など古典書物などから、その当時の医術を読み解いたり、現代医療との比較検討をおこなったりします。「なんちゃって漢方医」とか「なんとか王子」とか、つくしのように乱立してますが、古典を読まずにどこを自分の診療の拠り所にしているのか、いささか心配になります(笑)

『勿誤薬室方函口訣』に引用された『療治経験筆記』

ことしのテーマはこれにしました。「浅田飴」で知られる、浅田宗伯があらわした『勿誤薬室方函口訣』(ふつごやくしつほうかんくけつ)は、保険診療で用いられる漢方エキス処方の原典としてもかなりのウェイトを占めています。

さて、その『勿誤薬室方函口訣』のルーツはどこにあるのでしょうか?

それに関する指定講演を北里大学東洋医学総合研究所で命じられたのが、2016年の漢方治療研究会で、私の演題名は『勿誤薬室方函口訣』の出典調査から、でした。このポスター、実は私がつくりました!

向かって右の人物が、浅田宗伯先生です。