Q 「そもそも漢方って…なんですか?」
A 「生薬のすべてが漢方、と思いますよね。ふつう。でも、生薬を使っていれば漢方、ってことにはならないんです」

生薬を用いた診療のすべてが漢方とは言えないし、中国で使われている処方が漢方ではない、のです。あくまでも、その処方を日本人が受容したかが、肝です。それらの処方群でさえ、日本の歴史の中で淘汰されたものもあり、歴史の深さが重要です。簡単にいうと、日本の歴史というフィルターを通して、日本人に受け入れられ続けてきた医療体系が「漢方」です。なので、本来は針灸も漢方です。

江戸時代、オランダ医学(蘭方)というカウンターカルチャーが日本に入るまでは、比較する必要もないほど当たり前に存在していた漢方でしたが、比較対象が生じたため当時「漢の時代を中心とした、大陸由来の処方や針灸など伝統医学のこと」を「漢方」と呼ぶことにされました。その体系は中国大陸で、漢の時代にだいたい形成されました。「だいたい」と言うのも、漢以前にも伝統医学の体系を培養する土壌があったからです。

16世紀には南蛮医学が、17世紀にはオランダ医学(蘭方)が伝わったが、それでも19世紀半ばの明治維新まで、日本の医学文化は基本を中国に負う伝統医学が中心であった。この医学体系を日本人は蘭方に対して漢方と呼んだ」(小曽戸 洋『中国医学古典と日本』より)

さて、漢の時代につくられた医療哲学、処方体系が、その後の時代に大陸でそのまま継承されたか、というと厳密には違います。それは漢という国が滅ぼされた後に、宋、金、元、明など大きな国が形成される度に、その国家を形成する民族(漢民族、モンゴル族、および現在の満州族につらなる女真族など)の風習文化、考え方の違いによって、処方や施術方法に幅、バリエーションが生まれた、ということです。

ただし現在の日本では、江戸末期から明治初期までに受け入れられてきた、大陸からの処方群をまとめて「漢方」と呼ぶことが一般的です。国家中枢の違いを考えれば、「漢方」以外に「金方」とか「元方」とか別処方群の呼び名があっても良いのですが、十把一絡げ(ジュッパヒトカラゲ)に漢方と呼びます。

上流にさかのぼるなら漢の時代。
では下って、近代はどこまで漢方と呼べるのでしょう?

わたし個人は、後の大正天皇を救命するなど明治初期まで活躍した浅田宗伯(1815 – 1894年)がのこした著作群までが原則最後、と捉えています(後述しますが、七物降下湯など例外はあります)。

明治、大正時代は国策により、わが国の漢方医が激減、ほぼ枯渇しました。昭和に入り、少数精鋭の先人たちにより復興の息吹があり、第二次世界大戦の後、ふたたび漢方、針灸が花開くこととなります。

ちなみに現在「中医学」と呼称される医学は、昭和の伝統医学復興につづき、1966年からはじまった文化大革命の、つまり中華人民共和国で再編した新しい伝統医学、と私は考えています。日本で漢方の粉薬、いわゆるエキス剤による「保険漢方」が一般に普及し始めたのが1970年代なので、日本国内で医療保険の適応がある漢方処方の一覧に、中医学の新しい処方(たとえば冠心Ⅱ号方1など)が、まったく入らないのも理解できるでしょう。

例外はあります。
七物降下湯2は、地黄3、当帰4、芍薬5、川芎6という「四」生薬から構成される四物湯7に「三」つの生薬、釣藤鈎8、黄耆9、黄柏10を加えた計7つの生薬で「七物」なのですが、昭和に大塚敬節(1900 – 1980年)が創った処方です。元となる四物湯は『太平恵民和剤局方11』を原典とし、創成から917年以上(2024年時点)を経ています。四物湯のバランスを崩さない程度の生薬を加えており、長い歴史に淘汰されなかった四物湯の派生である七物降下湯は、日本人の体質に合った処方のひとつ、と考えられます。

ちなみに、この七物降下湯に杜仲12を加えると八物降下湯13。七物降下湯に3生薬、山梔子14、黄連15、黄ゴン16を加えると十物降下湯17になります。これら四物湯ベースの薬を創ったのは、それぞれ私が8年間奉職した北里大学東洋医学総合研究所(現在、北里大学北里研究所病院 漢方鍼灸治療センター)の3人の所長です(七物降下湯は初代 大塚敬節、八物降下湯は二代目 矢数道明、十物降下湯は三代目 大塚恭男)。

歴史に淘汰されなかった処方群、日本人の体質に合った処方群のうちの極一部が 保険漢方に入った。一方、歴史に淘汰されていない中医学の新しい処方群が 保険漢方に入っていない(文化大革命が終了したのが1976年とされ現在、まだ50年も経ていない)。結局「いま、ここ」にあるものは過去、歴史とつながっている、ってことですね。

ドイツのヴァイツゼッカー元大統領の名言に「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」とあります。文脈は異なりますが、歴史を知らないと、目の前に起きていることに正しい判断、決断ができないし、正しい処方が得られない。なので、漢方の歴史にまったく興味がない医者が出す漢方処方は、すこし気をつけた方が better かもしれません。

笑い話ですが、日本東洋医学会の専門医試験を受けるべく、あるドクターが提出した症例レポートに「原典(ある処方が史上、最初に書かれた医学書)は『本朝経験』」と記載があったそうな。笑い話は解説してしまうと面白味がなくなりますが、無粋ながら。本朝経験とは「日本における経験に基づく処方」の意味で、書名ではないのです。なんちゃって漢方医が、ちゃんと合格できたかは不明です。信じるか信じないかは…あなた次第。

ちなみに本朝経験方には、柴朴湯18(小柴胡湯19と半夏厚朴湯20を合わせた処方)などがあります。専門医試験には口頭試問があるのですが、意地悪なひっかけ問題を出してもおもしろいかもしれません。

試験官「では、柴朴湯の原典はなんですか?」
受験者「『本朝経験』という書物です」
試験官「ふっふっふっ、オヌシひっかかったな。では、小柴胡湯と半夏厚朴湯の原典は?」
受験者「(かぶせぎみに)『本朝経験』です」
試験官「…」

「虫の目」ではなく「鳥の目」で俯瞰して観ると、生薬、ハーブをあつかっているから即、漢方ではないし、それらを処方しているから即、漢方医とは限らない、です。たとえ漢方を名乗るクリニック、薬局であっても、気をつけて受診もしくは相談された方が良い。私はそう思います。相手次第です。本当の広告は、ネットではなく地声を通しての口コミ。

さきに述べた大塚恭男先生は、北里の職員らに十物降下湯と呼ばれ処方が独り歩きするのを嫌い「十物降下湯ではなく、温清飲加釣藤・黄耆21と呼んでほしい」と頼んだそうです。温清飲という処方に釣藤(鈎)、黄耆を加えた生薬内容は十物降下湯と全く同じなのですが、恭男先生ご自身はグイグイ我先に目立とうとされなかった御仁のようで、孫弟子に当たる私も間接的によい教えをいただいたと勝手に感じています。新しいものが良いとは限らない

守破離」の「破」はカッコよいが「守」があってのことだから。「守」のない「破」は仇花です。本来は「孤高」になれるはずの「離」も、「守」がなければただの「孤立」になりかねないデス。型破りのつもりが、形無し。守るべき伝統を学ばぬ者が破ったつもりになるものは、「自己満足、自己憐憫」と記された腕押しの暖簾なのかもしれません。自戒、自戒。

さて日本と異なり、現在の中国は国家をあげて伝統医学に本当に力を注いでいます。現在の中華人民共和国のリーダー達は漢民族が多く、おおもとの漢方、つまり「漢民族による漢方よ、いまいちど」という国民発揚の意識付けもあるかもしれません。Global だけではなく Local の重要性に気づいているのでしょう。世界は伝統医学に舵を切り始めていますが、日本は出遅れています。

【以上、転載禁止】

みちとせクリニック院長

堀田広満

(補足)

1 冠心Ⅱ号方 かんしんにごうほう:保険診療に収載なし

2 七物降下湯 しちもつこうかとう

3 地黄 じおう

4 当帰 とうき

5 芍薬 しゃくやく

6 川芎 せんきゅう

7 四物湯 しもつとう:創成は北宋より前の時代へ、遡れる可能性がある。原典は現段階で太平恵民和剤局方。

8 釣藤鈎 ちょうとうこう

9 黄耆 おうぎ

10 黄柏 おうばく

11 太平恵民和剤局方 たいへいけいみんわざいきょくほう:大観年間(1107‐1110年)に陳師文、陳承、裴宗元らが編纂。

12 杜仲 とちゅう

13 八物降下湯 はちもつこうかとう:保険診療に収載なし

14 山梔子 さんしし

15 黄連 おうれん

16 黄ゴン おうごん 「ゴン」は{艸(くさかんむり)+今}

17 十物降下湯 じゅうもつこうかとう:保険診療に収載なし

18 柴朴湯 さいぼくとう

19 小柴胡湯 しょうさいことう

20 半夏厚朴湯 はんげこうぼくとう

21 温清飲加釣藤・黄耆 うんせいいんかちょうとうおうぎ:温清飲は保険収載あり