ちょうど11年前、今日と同じ金曜日、11月4日。
私は、港区白金の北里研究所病院のある人の前で、生前の姿に思いをはせていました。
そして約束しました。
「私は刻み生薬で人々を癒していきます。一生」
村主明彦 医師
北里大学東洋医学総合研究所で3年弱、お世話になった先輩です。2011年11月3日に亡くなる2週間前まで、自分が入院する身でありながら、同研究所で漢方の外来診療をつづけた姿を今もおぼえています。
「どう? 研修たのしい?」
「この饅頭おいしいねぇ!(モグモグモグ)」
「電話番とか、谷口さんにこき使われてない?」(すぐさま後ろから「んもぉ~村主先生たらぁ~」とかわいい声)
「今度いくオペラ公演、楽しみなんだよねぇ」
わたしが北里大学東洋医学総合研究所で研修中、いちばん話しかけてくれた上司です。2009年3月まで研修医を指導する立場であった私。西洋医学はやり残したことはない、と一区切りをつけ翌月、約15年ぶりに「なつかしい」研修医にもどり、東洋医学の研修を同研究所で開始したとき、人懐っこい村主先生は最初のオーベン(指導医)であり、いろいろ気にかけてくれました。
同時期、先生は「回想 漢方医駆け出しの頃」(北里大学東洋医学総合研究所の機関紙『漢方と鍼』133号)に、私のことを見てこんなことを書かれています。
「新年度を迎えるにあたり、新たに研鑽を目的に集う医師に、フレッシュマンであった自分を重ね合わせ雑感を述べてみた」
東洋医学、西洋医学に限らず、研修医には読んでもらいたい内容です。音楽好きには分かるかも。ジョー・ストラマーの名言 ”Punk is attitude, not style” を借りれば「医療はスタイルではない、姿勢だ」ってこと、なんだと思います。
1年目の新米研修医は当時、医局秘書さんがいない時の電話番や来客の対応などもこなしていました(こういうことを通して東洋医学の大御所にも名前をおぼえてもらえるので、私個人は雑用と感じませんが最近の研修医はそう感じるようですね)。
村主先生が他界された2週間後、わたしは日本東洋医学会の専門医試験会場で面接試験を受けていました。2人の試験官から厳しい質問が浴びせられる中、清熱補気湯という処方が著効した患者さんのレポートに目を通した面接官から一言。
「村主先生はこの清熱補気湯がお好きで、よく処方されてましたねぇ。今回は本当に残念なことでした…」と私に声をかけていただきました(たしか杵淵彰先生だった、と記憶しています)。試験中ながら不思議とおだやかな時間がその場に流れたのでした。
あの約束があったから、いろいろな困難を乗り越えてここまでやってきた、と感謝です。もっと振り返ると、私が医者をめざすきっかけをくれた友も医学部受験の浪人中、10月末に天国へかえりました。長く生きていると、あいつの分も、あの先輩の分も、できれば生きてやりたいという思いが増えていきます。笑顔で日々、診療に。1日1日を大切に。結果として長く、多くの患者さんをいやせるように。
村主先生は私が忘年会や医局旅行でくりだす芸を、たいそう喜んでくれました。ご自分の余命を知っていたであろう時期、2011年3月初頭におこなわれた医局旅行で、私が芸でつかった金髪ウィッグを「僕も」と頭にかぶって写真にうつる村主先生は thumbs up して満面の笑みでした。
悲しい思いは消えていき、楽しい思い出が残っていく。不思議なものです。
一生、刻み生薬に関わりつづけるのは、なかなか困難が伴いますが、約束したんで大丈夫。口コミで少しずつ患者さんが増えているのも感謝です。
わたしの運が良いのも、出会ってきた先人たちの思いもあるから。そう信じています。
みちとせクリニック
院長 堀田広満