星野源『いきどまり』に思う今日、節分

映画『平場の月』主題歌の星野源『いきどまり』(配信開始は昨年11月)が秀逸です。個人的には今日の節分にはまる曲、と感じており、記事を読んでくださる方と何らかの共有ができたら幸いです。

official video が描くのは水、光、鏡、死んだような街
星野源さんが演じている人物(以下「彼」とします)は、すでにこの世を去ってしまった彼岸の人です、たぶん。

節分は冬と春の境目、鬼や死を封じ込める日なんで、すこし線香くさい話ですがご勘弁を。もし許容できなそうな人は、どうぞスルーしてください

星野源『いきどまり』

動いているのは水、光、雲、そして彼だけ。ほぼ無音(曲中、ピアノ以外の楽器が鳴らないのも「息が止めば」を意識しているのかも)。「電気の灯るところ、それぞれの家庭がある」ことが感じられない、人が生きている気配の無い世界。

は池、小川そして、たぶん海。

それに各家の窓からこぼれる、小径の電灯、フラッシュ、太陽と街灯の合わせ鏡である「月」と「カーブミラー」。

青から黄色に変わる信号は、赤に変わる寸止めで他の映像に切り替わり、かえって見えなかった赤色が私には強い残像となりました。ホウセンカの赤い花、交通標識「進入禁止」の赤色が気になります。赤信号の進めない、行き止まり、八方ふさがりな感じ。カーブミラーも人生の岐路を暗示しているのか、太陽の元ではなく月の下でしか生きられなくなった彼。

この世界観は村上春樹の『1Q84』や、キリンジの『エイリアンズ』『Drifter』などが好きな人なら、きっと分かってくれると思います。こんな歌詞

 忘れられぬ
 呪いをいま
 君にあげる

 嘘
 ただ
 忘れないよ
 君の温度
 下手な
 間違いだらけの優しさも

彼の顔色は月夜のせいか白く、着る服も白系。しかもホウセンカの咲く夏に似つかわしくないコート、、、ん? 体温が無いのかな?ということで「忘れないよ 君の温度」から連想される血液・血肉の赤、ホウセンカの赤が効いてます。

すこし怖いけど、エロスとタナトスが見え隠れし、そこに漂う色気。そんな世界観。エロス(生)とタナトス(死)は表裏一体。そして呪いと祝福も表裏一体。だって「呪」と「祝」はクチ偏かシメス偏かの違いで、つくりは同じ。だから「彼」が君にあげると言った呪いは「嘘」と言った時点で、祝福に変化している。私はそう感じます。「嘘」と歌う彼は、星野源さんがタモリ倶楽部の空耳アワーで「ハハハハハッ!」と笑っているかのごとく「嘘(笑)」と(笑)を付けているのではないかな。本音は。

暗い中でむしろ生を感じる(つまりタナトスとエロス)に関し、脱線しますが谷崎潤一郎の評論『陰翳礼讃』の文を思い返しました。

(引用始)
「かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹(筆者注:ようかん)の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んで(筆者注:ふくんで)いる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う」(以上、引用終)

動画に戻り、1分あたり、彼が歩いていく向こう側。フェンスを超えれば、あるのは池。東京大学の駒場池(一二郎池)です。方角は北、あとで触れますが死の方角です。

また、0分46秒あたり彼が登るは、代々木公園駅近く「春の小川」の大きい文字が下にある階段です。彼がさまようあたりは暗渠(地下に流れる川)ですが代々木公園の際に河骨川があり、それが渋谷の宇田川につながり、渋谷駅方面に流れていきます。渋谷駅を越えたその下流は現在でも水面がみえて、川の流れに身をまかせると渋谷リバーストリート、都立広尾病院、慶応義塾幼稚舎、私が奉職した北里大学東洋医学総合研究所、古川橋、麻布十番駅、赤羽橋駅があり、浜松町駅を左手にまっすぐ向こうを見ると有明方面、もうです。途中、五の橋、四の橋、、と数字が上がって一の橋となるのは海側から上流にむかって橋名がついているんです。

ピチカート・ファイヴの小西康陽さんが幼少期を過ごしたのも、この五の橋、四の橋商店街などのあたりでエッセイに出てきます。細野晴臣さんもこの近くの食堂「レストランハチロー」が好きで、、、おっと脱線。

1分28秒あたりで彼が歩いているのは、さきほどの階段すぐそば、方向は渋谷駅方向。つまり上流の河骨川から下流の宇田川(渋谷の宇田川ですね)につながる方向です。つまり彼は南方、海に向かっています。歌詞に「はら はら 海に流れ出す」と歌われる直前の映像で、、、エモいです。

と思って気をゆるしていると、1分40秒あたり「さようなら」の直前に、主人公の右目あたりにフラッシュ的な光が一瞬照らされ、主人公が消える。その結果、彼の左目が残像として残り、これは1ドル札にも描かれる「プロビデンスの目」かもしれないと感じ、、、ふむー。ま、意図したものではない、と願いますがチト気になりました。右目と左目とで陰陽が分かれるけど、焦げつかないよう深煎りせず。ま、院長の私とは関係ない世界線ですな。

さて、このフラッシュは観ている人への合わせ鏡のようにも感じました。「死を想え、メメント・モリ」ってやつです。カウンセラーがクライアント、患者のミラーリング、オウム返しをしている構図と似ている気がします。

また1分51秒で証明写真機の中で光るフラッシュ。彼が撮った照明写真には「誰もいない」のが映っている。免疫のない人には毒に感じるかもしれません。が、毒薬は薬効の良い劇薬にも変わります。とある小説が人によっては救いになるように、メメント・モリのワクチン、予行演習としての効用もあるんでは?と感じました。星野源『地獄でなぜ悪い』の世界観にも似て。

さて1分57秒で一瞬、不完全に点線のパテ埋めをしたようなタイル地が出ますが、これは『易経』を学んだ者には「陰卦」と観えるでしょう。これは文字どおり。なんで月、水、川、窪み、行き止まり、暗闇、無音、エロス、死生、冷え、コートの冬など、彼に起きていることが合致します。その対極はホウセンカの夏、赤(朱夏)で陽。なので太陽がのぼると、彼は立ち消えるのでしょう。

東洋哲学を学ぶ者は四書五経のひとつである『易経』も経るべきですが、その中に「坎(かん)」という項目が出てきます。これが上記の陰卦の事象を表しています。三本の線のうち真ん中のみ実線(陽)で、その上下は点線(陰)ですが、これは天から観れば真ん中に川が流れており(真ん中の実線が川、左右に点線の岸)、また地中にもぐって横から観れば暗渠の下、地下水道として水(上の点線が地上、真ん中の実線が川、下の点線が地下)が流れていることになります(今の宇田川、渋谷駅もこれですネ)。水も滴るいい男、みずみずしい素肌、水っぽい話、水商売など水にからむ性的表現もあります。

また医学的には、凹(陰)である女性器に凸(陽)である男性器が結合(外側は陰柔だが内部は陽剛)、受精することに通じ、また腎臓や副腎ステロイドなどいわゆる東洋医学の「腎」になります。気をやる、とか腎気とか、先天の気とか、東洋医学の腎は勉強すると死生観につながるんです。

「坎」の意味する方角は「北」。死を意味するので北枕が嫌われたり、京都御所の門は東西南北で北だけ門がありません。『いきどまり』の彼が、代々木公園や東京大学駒場キャンパスあたりをさまよった後、川を海へ向かって下るのも北から南方向でしたが、同じベクトルを京都御所にシフトすると北の壁からは御所に入れません。しかたなく壁沿いに春の陽気方向に向かうと、北東の壁のつなぎ目に到達しますが、ここ実は「欠けて」ます。行くと分かります。普通、角は凸ですが、鬼門の北東だけ凹なんです。そしてそこにはがいます。猿は「去る」。鬼が去る、鬼は外(= 節分)で猿がいるんです。反対側、つまり裏鬼門の南西方向にいる申(さる)が目を光らせている、とも言われます(厳密には未申「ひつじさる」ですが)。今度、京都御所に行ったら猿さんの目がフラッシュしているか、確認してみてください。

鬼門が欠けているのは、「坎」のツチ偏を除いたら「欠」になることに通じるかもしれません。鬼のツノを欠く。「欠」は「凹」。池など、くぼみにはまったら抜け出せない。行き止まり、息止まり意気止まり、粋止まり。

最後に彼は朝陽のまぶしさを確認して消えます。これは北から東へ向かう鬼門、季節なら冬から春の転換点。つまり節分と立春の切り替わり。先程の例えに変換すると、鬼門から東門にたどり着かないまま、京都御所の中に入れない。太陽のもと生きる、血肉を得られないのです。うーん、鬼滅の刃になってきたゾ(笑)

さて、この曲に「ベタな雲の上の再会もない」という歌詞がありますが、星野源さん本人の個人的信条ではないでしょう。それは彼がインタビューでこう語っているからです。

「最近私は自身を焼き付けるような楽曲を書いてきましたが、この新曲「いきどまり」は自身を歌ったものではなく、歌の中に物語があり、それが一人称で語られる楽曲です」

映画『平場の月』の世界観にそって書かれた歌詞なので、あくまでフィクション。

私としては「ベタな雲の上の再会はある」と思っています。なので、私に医者になる志をあたえてくれた友人も、「ひろちゃんがお医者さんになったら最初に聴診器をあててもらうんだ」と語りながら医学生時代に亡くなった教会の川嶋おばあちゃんも、そして坐りながら静かに最後の息を止めた父も、私にとっては「今日も欠席」ではなく「今日は欠席」。対岸に渡れば、必ず会える。しかし自分からは会いに行かない。私は私の使命を、この世で燃やし尽くします。なんてね(笑)

さて今回の「いきどまり」映像を何回みても、動いているのは水、光、雲、そして彼だけ、と判断していました。当然、各家の気配をまったく感じませんでしたが、実は一か所だけありました! 映像の中心をずっと見ていると、分かります。最初の方です。

星野源さんの他曲『eureka』の意味も「見つけた!」「分かったぞ!」の意味ですが、気づけば、その後はずっと「なぁんだ」となる視点。ヒッチコックの『裏窓』のように、視点を変えると見えてくるもの。

「彼」の視線の先にあった1か所、一瞬の気配。これって、ミステイクとしての見逃しではなくて、実は映像スタッフが意図的に残した「祝福」としての見逃し、かつ「祈り」(これもシメス偏)だとしたらエモい、、、と思う院長なのでした。