今年のグラミー賞授賞式で、写真が大きく映され “Musician, Singer, Record Producer. YELLOW MAGIC ORCHESTRA” 表記で追悼された高橋幸宏さん。グラミー賞史上、日本人アーティストが追悼されたことは多くないはずです。Duran Duranなど世界中から追悼があり「棺を蓋いて事定まる」国宝級のヒーローを誇りに思います。

先月、幸宏さんが他界されたことを知り、1人のファンとしてしばらく呆然としました。クリニックのブログに個人的なことを書くのは不適切、と思われる過敏、繊細な方は後日、YELLOW MAGIC ORCHESTRA(YMO)御三方のことを陰陽五行とからめて、つまり東洋哲学的に考察した記事を書くのでゆるして下さいな。

高校2年生の文化祭。わたしは同級生2人とYMOのコピーバンドでステージに立っていました。Bassのスズキ マコト君、Keyboardの私、そして嘘のような名前ですが Drumsはタカハシ ヒロシ君(笑)

コンピューターとシンセサイザーをMIDIで連動させて、コンピューターリズムのクリック音はドラムにだけ流し、他の2人はクリック音ではなくタカハシヒロシ君の放つビートにあわせて…当時、おこずかいも微々たるもので、自分のシンセサイザーが無い私は自宅のピアノでイメトレ(笑)

先輩、同級生のシンセサイザーを借りて、ほぼぶっつけ本番でしたが、我ながらよくやったと思います。幸宏さんがつくった RYDEEN も演りました。この時、先輩に乞われ、掛けもちした別バンドでは高中正義、カシオペアのフュージョン曲も演奏したので、本当に死にものぐるいでした。受験勉強と並行した当時は「もう、やりたくない」と思いましたが、もし今タイムマシーンにのれるなら間違いなく、あのステージに戻ります。楽しかったなぁ。

体育会系の部活、バンド、受験勉強。地方の公立高校。医学部に現役で受かるはずはありませんな。1年間、浪人し医学部に合格しました。が、その浪人中、わたしが医師になるきっかけを作ってくれた友が他界しました。もう何もする気が起きなくなり。その時、救いになったのが高橋幸宏さんのラジオ番組。FM横浜だったかな。Four Roses サウンドバー。

お酒のメーカーがスポンサーだったせいか、オールナイトニッポンのような、はっちゃけた幸宏さんではなく大人な幸宏さんで。ゴダールクロード・ルルーシュフランシス・レイ小津安二郎笠智衆などのキーワードをさらっと語りかけるのでした。デビュー前の高野寛さんを知りファンになったのも、この番組がきっかけでした。

ある日、幸宏さんのアルバム『EGO』の曲「左岸(LEFT BANK)」がラジオから流れてきました。

恐竜の時代から 変わってないことは
太陽と空と生と死が 在ること
過ぎてしまうこと

向こう岸は 昔 住んでいた所
左岸を 海に向かって
ぼくは歩く
君を愛しながら

泣けました。簡単には泣かない男ですが若かりし院長、泣きました。そして励まされたのです。あれから奮起しました。受験勉強。書道が得意な家人に「背水の陣」と書いてもらった紙を机の前に貼って(笑) 自分が医者をしているのも、幸宏さんの寄り添うような歌声のおかげかもしれません。

大人になり少しずつ分かってきました。この曲には double, triple meaning が暗号として隠されていることを。作詞は鈴木慶一さんであることをお断りしつつ。

死生観をうたっていることは間違いない。つまり、こちらの岸、あちらの岸(彼岸)を詠っているのでしょう。

そして、たぶん LEFT は「左」でもあり尚且つ、leaveの完了形 left、こちらとあちらに「遺されて」「残されて」しまったことも表していると思います。

さらにフランス、パリ市内を流れるセーヌ河も意識しているかもしれません。セーヌの右岸は凱旋門へ向かってブティックが並ぶシャンゼリーゼ通りが見えます。が、対する左岸は哲学者サルトルらが眠るモンパルナス墓地や、カタコンブ・ドゥ・パリが観えます。右岸は現世的であり、左岸はheavenly, はらいそ的なんです。

1stソロアルバム『Saravah!』など彼の作品群からわかるように、フランスに精通していた幸宏さんは「左岸」を歌うとき、セーヌ川の左岸も意識していたと思います。そして私は思うのです。幸宏さんの人生はパリの紋章に描かれている船、そして文言に似ている、と。

「たゆたえども沈まず」(Fluctuat nec mergitur)

うたかた、うつしみ。泡沫、現し身。いずれ移し身。

って、とこかな。
右岸から左岸への移し身。

高橋幸宏さん自著『犬の生活』には、こう書かれています。
20歳になってまもなく、母が亡くなった。ひ弱だった僕にとって、このときのショックは計り知れず、大きく、救いがたいものだった。ほどなくして、極度の不安神経症が僕を襲った。すでにサディスティック・ミカ・バンドに在籍していた僕だったが、具体的な症状もなしに倒れ、コンサートをキャンセルしたこともあり、一時は脱退を考えたりもした。(引用終)

それから2年後(22歳時)、リリースされたサディスティック・ミカ・バンド2nd アルバム『黒船』の1曲目「墨絵の国へ」。2分あたり曲調が変わり「しんきろう めざし 船は進む 幻の国へ たどりつくため」と幸宏さんの語りが始まるのですが、当時の精神状態、不安感が声に反映されているように感じます。船出の魅力的な曲ですが、痛々しいのです。でもそれが新たな船出の不安感を醸し出しているようで、リーダー”トノバン”加藤和彦さんのセンスを感じます。

成人前の幸宏さん。父上が経営されていた会社でクーデターが起き、ほどなくして母上が他界され、御家族にかかったストレスは想像できないほど多大なものだったでしょう。

わたしも昨年、父を亡くしました。父と親しくしていただいた小坂忠さんも昨年天国に帰り。幸宏さんまで。ワインの澱が沈むように、気持ちが整理つくまで待ち今日、文をつづりました。YMOの細野晴臣さんふうに言えば、冬越えさ、季節の変わり目さ、くしゃみをひとつ。幸宏さんのアルバム風にいえば『ボク、大丈夫』

10年前、山本耀司さんとの対談中「人生の最後に聴きたい歌は何ですか」の質問(耀司さんからの質問ではない)に、幸宏さんは「本当は音楽なんて最期、死ぬときに聴きたくない」と断りつつプロコル・ハルムの”Pilgrims Progress”(巡礼者の道)を挙げていました。聴けば分かるでしょう。長い航海を終えて、船の中ひとり座り、最後に日誌を書いている男の物語。

幸宏さんは35歳のとき、この曲をカバーしています。先の鈴木慶一さんとのユニット、BEATNIKSのアルバム『EXITENTIALIST A GO GO ビートで行こう』。わたしが高校3年の時、受験勉強しながらよく聞いていました。当時はこの曲の良さが分かりませんでしたが、今は胸に沁みます。70歳で他界した幸宏さん。人生の折り返し地点、35歳の時にはメメント・モリ(死を想え)の境地に達していたのでしょう。

幸宏さんと親しい、景山民夫さん、”トノバン”加藤和彦さん、小坂忠さんらが他界されるたび、私は「大丈夫かな?幸宏さん。変な気を起こさなければいいが」と心配しました。そういう弱そうに見えるところが魅力でもありました。

雄々しく人生の旅路を終えた高橋幸宏さん。しかし、たぶん航海中は「勘弁してよぉww(笑)」とかなんとか言いながら飄々と、淡々と。よく頑張って生き抜いてくれた、と感謝です。

幸宏さんが大きく手を振っている気がします。しかし私の両手はポケットの中に入れたままで。あなたが教えてくれた美学です。

片道切符をもってしまった幸宏さんを送り出す曲は、高橋幸宏「SAYONARA」でも良いのですが、似た曲で。幸宏さんが通った立教高等学校の後輩、佐野元春さんの曲「グッドバイからはじめよう」から。元春さん、すみません。勝手に。ゆるしてください。しかしこれ以上、ぴったりの言葉がみつかりません。

ちょうど波のようにさよならが来ました
言葉はもう 何もいらない ただ見送るだけ
遠く離れる者 ここに残る者
僕が決めてもかまわないなら 何も言わないけれど
どうしてあなたは そんなに 手を振るのだろう
僕の手はポケットの中なのに

わたしは右岸をしばらく たゆたいます
左岸をチラチラ観ながら

ありがとうユキヒロ
ゆっくり休んでください
高橋幸宏よ 永遠なれ

みちとせクリニック

院長 堀田広満